新広島ホテルはどこだ?〜広島の観光名所シリーズ②〜

今回は平和公園を旅します。

目的は、かつて平和公園内にホテルがあったという話を知って、そのつめ跡がないかを探すためです。

 

平和公園は世界的に有名な建築家・丹下健三が若い頃にデザインした作品です。

戦後初代広島市長である浜井信三は世界に平和のメッセージを発信し、鎮魂をできる場所を必ず創ると誓っていました。が、戦後下の食べるにも困窮している時代においてまず最優先とされるのは間違いなく「生活」。今見ても広大な土地である今の平和公園内にはバラックが数多く立てられ、そこでは生活が営まれていました。平和公園建設の第一歩はそこで生活している人たちの「立ち退き」だったのです。

そんなことを思いながら、平和公園内を歩いていると不思議な感覚になります。私たちが今見ている景色は原子爆弾の悲劇から繋がっているのはもちろんですが、ここで生活していた人たちの日々からも繋がっている・・・そこをもっと知りたいと思うのです。その意味ではレストハウスはそんな戦後直後の平和公園ができるまでの街の姿も見てきた貴重な建物です。元々は大正時代に呉服屋だったこの建物。その後戦時中に燃料配給のための燃料会館となり被曝します。最近では映画『この世界の片隅に』でも登場し話題になりましたね。ただ、現在は耐震補強の関係もあり建て替えが決まり建物の中に入ることは出来ません。2019年には大正時代の呉服屋時代の建物を復元しながら当時の風情を再現するような計画になっているとのことです。なので、このレストハウスを見るなら今です!!!!

さて、休憩を終えたら、

目的であるかつて「ホテル」があった場所へ。現在の広島国際会議場がその場所です。平和公園の設計者である丹下健三は当初のデザインではここは公会堂だったとのことです。現在の国際会議場はその意味で丹下健三の意思を体現していると言えます。

 

丹下健三のデザインが採用され、工事が始まった当初は「立ち退き」問題に時間がかかり公園の完成は随分と時間を要しました。その間に広島市の中では平和公園が本当に必要なのかという議論すら出たと言います。優先すべきは公園ではなく生活ではないのかと。そんな議論が巻き起こる中で、広島の経済界が半ば強引に丹下デザインの公会堂の場所にホテルを差し込んだというのが経緯です。そのホテルの名前は「新広島ホテル」。現在の「リーガロイヤルホテル」です。現在も国際会議場の中にあるレストランはリーガロイヤルホテルが運営しています。昔の名残が残っているということみたいです。

国際会議場の周辺に当時の「新広島ホテル」の名残がないかと探し回ります。現在の国際会議場は1989年に建て替えられたもので、当時のホテルの面影はありません。むしろ丹下健三がデザインしたものに近い建物なので、丹下健三を忍にはぴったりです!

 

「新広島ホテル」を感じるものは残念ながらありませんでした。受付の方にも聞きましたが、ないとのことでした。

 

ここに宿泊できたらそれはそれでとてつもないVIP感があるだろうなとか、平和公園の静寂の中にホテルの喧騒は合っていたのかななどと想像をしますが、この荘厳な建物の前ではなかなか想像が湧きません(^◇^)

ただ、これも広島の歴史の1ページ。時代とともに平和公園も姿を変えながら大切なメッセージを発しているのだと思います。

 

普段、平和公園は広島市民にとっては「日常の風景」だったりします。ですが、こうしてたまに改めて「観光」として見てみると面白い歴史もあるし風情もある。この公園のデザインについてもまだまだ魅力があるので研究したい・・・そんな思いに駆られます。今は新広島ホテルの当時の写真などがどこかにないか探しているところです。

 

当たり前のようで、実に新しい「平和公園観光」でした♪

 

おわり。